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第7話 愛人にしてやる(上)

Autor: 柳 雪音
last update Data de publicação: 2026-08-11 22:04:03

(そう、この首筋につがいの印をつけたのは、あの方。

 私を黄昏の十字路で助けてくださった、薄荷のような、柑橘のような香りの方)

遥香はドレスの襟元へそっと手を添えた。

(私は、あの夜——一度だけ、あの方と夜を共にした)

首筋に残るつがいの印を隠すように襟を寄せる。

その時だった。

「……うっ」

慶一郎が顔をしかめる。

「なんだ、この匂いは?」

遥香の背筋がヒヤリと冷える。

(まさか……劣情ヒートの香りに気付かれた……?!)

襟元を押さえる手が微かに震えた。

「香水か?」

慶一郎は眉をひそめた。

縁香フェロモンがないからといって、そんな香水まで付けるとは……」

吐き捨てるように言った。

「みっともない!そんなに男の気を引きたいのか?」

「……え?」

「昨夜だって、君が突然姿を消したせいで、皆がどれだけ迷惑したと思っている!」

強引に腕を掴まれる。

「来い!」

遥香は抵抗することもできず、そのまま椿家へ連れ戻された。

◇◇◇

その頃、小鈴は優雅に紅茶を口へ運んでいた。

昨夜、路地へ送り込んだ男たちからは失敗の報告が届いている。

それでも構わない。

小鈴はまったく焦っていなかった。

「どうせ、お姉様は終わり」

男たちに襲われた。

その噂が立った時点で、名誉は失われる。

たとえ無事に帰って来ようとも、待っているのは絶望だけだった。

「小鈴様」

使用人が頭を下げる。

「慶一郎様がお見えです」

「そう」

小鈴は満足そうに微笑んだ。

「ちょうど良かったわ」

◇◇◇

「遥香。昨夜、君はどこにいた?!」

慶一郎の問いに、遥香は静かに顔を上げた。

涙は、流れていなかった。

「その前に、お聞きしたいことがあります」

「……何だ」

「昨夜、なぜ小鈴さんとご一緒だったのですか」

慶一郎は苦しそうに目を伏せた。

「あれは……事故だった」

「事故、ですか」

「小鈴が劣情ヒートを発症して危険な状態だったんだ」

苦しい言い訳だと、自分でも分かっていた。

それでも彼は信じていた。

遥香なら受け入れてくれる、と。

昔から彼女はそうだった。

自分より他人を優先し、人を責めない。

だから今回も最後には許してくれる。

そう思って疑わなかった。

「僕と小鈴はつがいなんだ。運命のつがいだったんだよ」

慶一郎は静かに言う。

「運命には、従うしかないだろう」

遥香は何も答えない。もう、何も信じることが出来なかった。

「でも」

慶一郎は一歩近づいた。

「愛しているのは、今でも君だけだ」

(そんな身勝手な理屈——!)

遥香は小さく息を吸い込んだ。

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  • フェロモンを持たない令嬢は、氷の軍神に愛される ——婚約者と妹に捨てられ殺されかけた私が、冷酷な軍神の凍った心を溶かすま   第8話 愛人にしてやる(中)

    婚約者である自分を裏切り、妹と番になった慶一郎。それにも関わらず、彼は遥香にこう告げた。「愛しているのは、今でも君だけだ」(そんな身勝手な理屈——!)遥香は小さく息を吸い込んだ。「それでしたら」澄んだ声だった。「今後、私には関わらないでください」慶一郎の顔色が変わる。(それだけは、できない——!)遥香は由緒正しい椿家の長女だ。加えて、遥香の母親は、貴族の中でも格式の高い、御三家の血筋に当たる。それは、異母妹であり、平民の母親を持つ小鈴との大きな違いだった。.遥香と別れ、小鈴と結婚する、という選択肢は、慶一郎には無かった。そんなことになれば、彼は——高貴な血統の姉に捨てられ、混紡の妹を娶った男。そう、人々に噂されるだろう。そんな不名誉は、西条家の者として、受け入れることはできなった。「それは……無理だ」「なぜですか」遥香が静かに尋ねると、慶一郎は拳を戦慄かせ——ドンッ!!珈琲机に右手を打ち付けた。「家には家の事情がある!」その時だった。「お姉様!」涙声が部屋へ響く。小鈴だった。頬を濡らしながら遥香の前へ駆け寄り、その場へ膝をつく。「お願いです!私たちを恨むのは構いません!」肩を震わせながら叫ぶ。「でも、腹いせに見知らぬ男性と密会するなんて……!」部屋の空気が変わる。使用人たちがざわつき始めた。——その噂は、小鈴自身が流したものだった。朝から使用人たちの前で涙を流し、「お姉様が知らない男性と一夜を……」そう繰り返して歩いた。真実かどうかなど関係ない。人は、面白い噂を信じる。それだけで十分だった。「違います!」遥香は初めて声を荒らげる。「私は——!」その瞬間だった。慶一郎の視線が遥香の首筋で止まる。乱れた髪の隙間から、赤い噛み痕が覗いていた。「その印は……」胸の奥に黒い感情が広がる。信じたくない。だが、目の前には動かぬ証拠がある。「遥香」震える声で尋ねる。「本当に……他の男と?」遥香は言葉を失った。説明できない。自分でも、あの夜に何が起きたのか分からないのだから。その沈黙を、慶一郎は肯定と受け取った。「……そうか」深く息を吐く。「裏切ったのは、君だったんだな」遥香は静かに首を振る。「私は裏切っておりません」「いや」慶一郎は穏や

  • フェロモンを持たない令嬢は、氷の軍神に愛される ——婚約者と妹に捨てられ殺されかけた私が、冷酷な軍神の凍った心を溶かすま   第7話 愛人にしてやる(上)

    (そう、この首筋に番の印をつけたのは、あの方。 私を黄昏の十字路で助けてくださった、薄荷のような、柑橘のような香りの方)遥香はドレスの襟元へそっと手を添えた。(私は、あの夜——一度だけ、あの方と夜を共にした)首筋に残る番の印を隠すように襟を寄せる。その時だった。「……うっ」慶一郎が顔をしかめる。「なんだ、この匂いは?」遥香の背筋がヒヤリと冷える。(まさか……劣情の香りに気付かれた……?!)襟元を押さえる手が微かに震えた。「香水か?」慶一郎は眉をひそめた。「縁香がないからといって、そんな香水まで付けるとは……」吐き捨てるように言った。「みっともない!そんなに男の気を引きたいのか?」「……え?」「昨夜だって、君が突然姿を消したせいで、皆がどれだけ迷惑したと思っている!」強引に腕を掴まれる。「来い!」遥香は抵抗することもできず、そのまま椿家へ連れ戻された。◇◇◇その頃、小鈴は優雅に紅茶を口へ運んでいた。昨夜、路地へ送り込んだ男たちからは失敗の報告が届いている。それでも構わない。小鈴はまったく焦っていなかった。「どうせ、お姉様は終わり」男たちに襲われた。その噂が立った時点で、名誉は失われる。たとえ無事に帰って来ようとも、待っているのは絶望だけだった。「小鈴様」使用人が頭を下げる。「慶一郎様がお見えです」「そう」小鈴は満足そうに微笑んだ。「ちょうど良かったわ」◇◇◇「遥香。昨夜、君はどこにいた?!」慶一郎の問いに、遥香は静かに顔を上げた。涙は、流れていなかった。「その前に、お聞きしたいことがあります」「……何だ」「昨夜、なぜ小鈴さんとご一緒だったのですか」慶一郎は苦しそうに目を伏せた。「あれは……事故だった」「事故、ですか」「小鈴が劣情を発症して危険な状態だったんだ」苦しい言い訳だと、自分でも分かっていた。それでも彼は信じていた。遥香なら受け入れてくれる、と。昔から彼女はそうだった。自分より他人を優先し、人を責めない。だから今回も最後には許してくれる。そう思って疑わなかった。「僕と小鈴は番なんだ。運命の番だったんだよ」慶一郎は静かに言う。「運命には、従うしかないだろう」遥香

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